「知覧特攻平和記念館」 母が訪れてみたかった場所。
九州への旅3日目晴天。
一番の目的、南九州市知覧町へ向かう。
緑あざやかな茶畑を抜け、しばらく走ると道沿いに立つ灯篭がその場所へと導いてくれる。
そこが母が訪れてみたかった場所、「知覧特攻平和記念館」。
「知覧特攻平和記念館」
・・・・ 大東亜戦争末期(戦後は太平洋戦争という呼称)の沖縄決戦で、爆薬搭載した
飛行機ごと敵艦隊に突入した陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺書、遺品等を収集・
保存・展示して当時の真情を後世に伝え平和に寄与するものである・・・・
以上 知覧特攻平和記念館冊子より抜粋。
母は昭和3年生まれ、戦前ではあるけれど大戦時は青春ど真ん中。
当時岐阜女子師範(現在の岐阜大学教育学部の前身のひとつ)の系列女学校に
通学していた母は、午前中2時間の授業を受けた後、同じ敷地内にある体育館に
移動して勤労奉仕を強いられていた。
他校の学生達は勉強を受けられないまま、朝から直接軍事工場(岐阜辺りでは
各務原、豊橋など)へ向かわされた事を思えば、敷地内で学友と学び、奉仕活動
できたのは、師範の系列、県内唯一の5年生女学校であるということが大きかった
のかも知れない。
母たちの奉仕活動は戦闘機の一部品を縫製することだったそうだ。
各人色々な思いを込めながら作業したに違いない。
「知覧へ一度行ってみたい」、傘寿を超えるまで元気でいられた母の長年の願い。
叶えることができました。
・ 学生時代に婚約し、学徒動員から特攻隊員となる。面会に訪れた婚約者から
手渡された白い手編みのマフラーを巻いて出撃。
ご尊父宛ての遺書には、婚約者へ「自分のことを忘れてくれる勇気を持って
欲しい」ことと「生まれ代わったらこの白いマフラーになりたい」という想いを
綴られていた。
・ 少年飛行隊を精神面からサポートする教官は、飛行経験が専門ではないからと
何度特攻兵に志願しても軍から却下される。 その叶えられない悔しい夫の思いを
知る妻は、「私達が心残りになってはいけない。お先に子供ともどもあちらで待って
おります」と荒川へ入水。亡き家族と自分の志を自らの血筆で意を軍に伝え出撃
許可を得る、絶筆は先に旅立っていった幼き我が子に向けて。
・ 沖縄へと出撃中、老朽化した特攻機ゆえ鹿児島のある島へ不時着。そこには
先に出撃していった仲間がやはり不時着し、瀕死の大やけどを負って島民に
看病されていた。もう一度国のために再出撃したい、そしてやけどを負った仲間
に薬を届けたい、その一心で島民に舟を出して欲しいと懇願する。
唯一手助けをかってくれた若き島民と2人で手こぎの舟で本島に漂着。
何十時間も知覧まで歩き、再び出撃。
助けてくれた島上空にて、仲間の治療薬とお世話になった島民へ当時貴重品
だったキャラメルを落下させて、沖縄へ飛び立っていった。
書ききれない実話は館内入口で借りれるイヤホーンガイドから。
最初はその悲話の連続で借りたことを後悔したのだけれど、やっぱり借りて、そして
聞いて良かった。
それはドラマではなく、本当に起こった私たちが知りえない事実なのだから。
記念館前の知覧の桜。
本当に美しく風になびいていた。
by ami-imanami
| 2010-04-01 11:55
| 旅日記